以前、ロゴマークをデザインさせて頂いた一般社団法人が協賛する展覧会のチラシデザインのお手伝い。
今般、池之端画廊で開催される里見勝蔵を巡る三人の画家の展覧会は意外な組み合わせと感ずる方が多いと思う。近代日本洋画史を紐解いても繋がりはよくわからない。
きっかけは島村洋二郎である。私がエコール・ド・パリの夭折画家、板倉鼎の顕彰活動を始めた4年前、志半ばで世を去った洋画家島村の顕彰をしている洋二郎の姪、島村直子さんを紹介された。私は鼎と同時期にパリで活動した美校卒業生を調べていて、里見勝蔵は前田寛治がパリ豚児と呼んだ一人だったが偶々洋二郎が師里見に宛てた絵葉書を入手したのである。文面から早くに疎遠になったと思われていた二人は長く近しい間柄だった新事実が判明、早速直子さんに伝えたのだが、それと前後して熊谷登久平を池之端画廊で知り、登久平次男の夫人熊谷明子さんと面識を得る。画廊主鈴木英之氏を私が顧問を務めている美術愛好家団体あーと・わの会にお誘いしその縁で同会の初代理事長野原宏氏の所蔵品を池之端画廊で展示することになった。そこに、知ったばかりの熊谷登久平と、野原氏が多くの作品を所蔵されている荒井龍男の里見勝蔵宛絵葉書各1通を続けて入手したのだ。荒井の葉書はソウル発で、パリに行くのでシャガールを紹介して欲しい、後進の為に道をお開き願います、という依頼の文面が興味深い。島村の絵葉書はシャガールだった。今回の四人を繋いだのは、昭和戦前・戦中期に投函された里見勝蔵宛の3枚の絵葉書なのである。親分肌里見の求心力のお蔭とも言える。
里見勝蔵(1895・明治28年生まれ)と三人との関係は、熊谷登久平(1901・明治34年生)は里見が創立メンバーだった独立美術協会会員として、荒井龍男(1904・明治37年生)は在野美術団体の後輩として、島村洋二郎(1916・大正5年生)は師弟関係として、である。全て別ラインで各人に面識があったのかは定かではない。熊谷と島村は白日会で接点があるが、10年間出品在籍した登久平に比べ洋二郎は入選1回である。しかし、放浪の画家、長谷川利行と親しくその追悼歌集に寄稿した熊谷、パリでボードレールの碑を描き友人たちと詩集「牧羊神」を出版した荒井、手作りの「五線譜の詩集」を遺した島村には同種の感性が通底している。彼らの作品は形態家ではなくカラリストのそれだ。
四人の作品が、里見勝蔵の母校東京美術学校(現東京藝術大学)近くの、美校卒業が2年後輩の鈴木千久馬の孫、英之氏が経営する画廊で一堂に会する。そのことにも想いを寄せながら絵を味わっていただければと思っている。